【修理レポート】ニューバランス576の象徴を取り戻す ― 岩手県M様へ贈る、本革製ヒールカップへの「進化」
2025/12/05
【修理レポート】ニューバランス576の象徴を取り戻す ― 岩手県M様へ贈る、本革製ヒールカップへの「進化」
プロローグ:スニーカーの聖地、その輝きと影
岡山県倉敷市、いずみ靴店。 日々、全国からあらゆる靴がこの工房に集まってきますが、今回ご紹介するのは、スニーカー界における「不朽の名作」です。
岩手県のM様よりお預かりした、ニューバランス(New Balance)576。
1988年のデビュー以来、オフロード用ランニングシューズとして開発されたその堅牢な作りと、深く刻まれたトレッドパターン、そして何よりそのボリューミーで美しいシルエットは、多くのファンを虜にしてきました。M様の576もまた、長い時間を共に歩んできた風格を漂わせていますが、箱を開けた瞬間、このモデル特有の、そして最も深刻な「持病」が進行していることが見て取れました。
それは、靴の内部の話ではありません。 576というモデルのアイデンティティそのものである、**「外装のヒールカップ」**の崩壊です。
第一章:576の宿命、樹脂製ヒールカップの加水分解
ニューバランスのスニーカーには、かかとの安定性を高めるために様々な工夫が凝らされています。 一般的に靴のかかと内部には「ヒールカウンター」と呼ばれる硬い芯材が入っており、これがかかとの骨をホールドする役割を果たします。しかし、576のデザイン的・機能的な大きな特徴は、そのさらに外側、アッパーの最後尾を覆うように取り付けられた**大きな「樹脂製ヒールカップ」**にあります。
このパーツは、着地時のブレを抑制し、悪路でも安定した歩行をサポートする重要なスタビライザー(安定化装置)です。同時に、ニューバランス576のバックスタイルを決定づける「顔」でもあります。
しかし、この樹脂素材こそが、時限爆弾のような性質を抱えています。 「加水分解(かすいぶんかい)」。 空気中の水分と化学反応を起こし、ある日突然、ボロボロと崩れ去ってしまう現象です。
M様の靴も、内部のヒールカウンター(芯材)は生きているものの、外側を覆っていた樹脂製のヒールカップが無残にもひび割れ、一部は欠落し、もはや靴としての機能を果たせない状態でした。 「一番目立つパーツが割れてしまった」「かかとのホールド感が外側から失われてしまった」。 多くの576オーナー様が、この症状を見て廃棄を選んでしまいます。メーカーに問い合わせても、発売から年数が経ったモデルの樹脂パーツは供給が終了しており、「修理不可」と告げられるのが常だからです。
しかし、M様は諦めませんでした。そして、私たちには「樹脂がないなら、別の素材で再構築する」という答えがありました。
第二章:樹脂から本革へ。異素材による「カスタムリペア」
失われた樹脂パーツと同じものを作ることはできません。 しかし、私たちはそれを**「本革」**で代用し、作り直す技術を持っています。
これは単なる「補修」ではなく、靴のキャラクターを進化させる「アップグレード」です。 樹脂製のヒールカップは、機能的ではありますが、どこか無機質です。それを天然素材である本革に置き換えることで、以下のようなメリットが生まれます。
恒久的な耐久性: 革は加水分解しません。手入れさえすれば、数十年単位で持ちこたえる素材です。二度と同じ悲劇は繰り返されません。
高級感の獲得: 576の重厚なシルエットに、本革の質感が加わることで、まるでビスポークシューズのような風格が生まれます。
エイジング(経年変化): 履き込むほどに革の色艶が増し、M様の足跡が「味」として刻まれていきます。
今回は、M様の576のカラーリングや雰囲気に合わせ、最適な厚みとコシを持つ本革を選定しました。 元の樹脂パーツの形状を慎重にトレースし、型紙を起こします。立体的なカーブを描くヒールカップを、平面の革から切り出し、美しい曲線になるよう成形していきます。
第三章:職人技の結晶、八方ミシンによる「縫い付け」
形作った本革のヒールカップを、どうやって靴本体に固定するか。 接着剤だけでは不十分です。歩行時に最も負荷がかかるかかと部分は、強固に固定されなければなりません。
ここで登場するのが、靴修理の要となる特殊機械、**「八方ミシン(はっぽうミシン)」**です。
一般的なミシンは平らな布を縫うためのものですが、靴は立体物です。特に、かかとのように袋状になっている部分に、後からパーツを縫い付けるのは至難の業です。 八方ミシンは、細長い筒状のアームの先端から針が出て、全方向(360度)に自在に縫い進めることができます。
このミシンを操り、新しい本革ヒールカップを縫い付けていきます。 針は、新しい革パーツを貫き、アッパー素材を通り、内部にあるヒールカウンター(芯材)、そしてライニング(内張り)までを貫通して縫合します。 元の樹脂パーツは接着や埋め込みで固定されていた箇所も多いですが、革で作り直す場合は、ステッチ(縫い目)そのものが新たなデザインアクセントになります。
一針一針、ズレが許されない緊張感の中で、ミシンを走らせます。 岩手の地で待つM様の笑顔を思い浮かべながら、頑丈に、かつ美しく。
第四章:見えない守護神、内部からのビス止め補強
縫い付けが完了しても、私たちの仕事は終わりません。 今回の修理における「隠れたこだわり」であり、プロの矜持とも言える工程。それが**「内部からのビス止め」**です。
新しく作った本革のヒールカップは、靴底(ソールユニット)との接合部付近で、歩行のたびに強い「剥がそうとする力」を受けます。 もし、縫い糸がほつれたり、革が伸びたりした場合、ヒールカップの下部が浮いてきてしまうリスクがゼロではありません。
そこで、靴の内側(インソールを外した底面)から、かかとの外側に向かって、数本のビス(ネジ)を打ち込みます。 このビスは、内部からヒールカウンター、アッパー、そして新設した本革ヒールカップを貫き、物理的にガッチリと固定します。もちろん、足に当たらないよう慎重に位置を決め、埋め込んでいます。
「縫う」だけでなく「ビスで留める」。 建築で言えば、釘だけでなくボルトを通すようなものです。これにより、ヒールカップの剥がれ防止効果は劇的に向上します。 外からは決して見えない部分ですが、このひと手間が、「安心して長く履ける」という信頼に繋がると信じています。
第五章:新生ニューバランス576、岩手への帰還
すべての工程を終え、メンテナンスを施された576が仕上がりました。
そこにあるのは、かつての「樹脂割れ」の面影など微塵もない、堂々とした姿です。 かかとを覆うのは、しっとりとした艶を放つ本革のヒールカップ。 オリジナルの576のデザインコードを守りつつも、どこか温かみのある、世界に一足だけのカスタムモデルへと生まれ変わりました。
指で押してみると、内部のヒールカウンターと一体化した本革カップが、頼もしい剛性を返してきます。 これなら、岩手の大地もしっかりと踏みしめていただけることでしょう。 加水分解の恐怖から解放され、これからは「革を育てる」という新たな楽しみがM様を待っています。
エピローグ:修理とは、愛着を更新すること
M様、この度は遠方より当店にご依頼いただき、本当にありがとうございました。 「ヒールカップが割れたから捨てる」のではなく、「直して履く」という選択をしてくださったことに、職人として深く敬意を表します。
ニューバランス576という名作は、修理を重ねることで、よりパーソナルな道具へと進化します。 今回取り付けた本革のヒールカップは、M様が履けば履くほど足に馴染み、傷さえも勲章となって、唯一無二の表情を見せてくれるはずです。
もし、この記事を読んでいる方の中に、下駄箱で眠っている「かかとのパーツが割れたスニーカー」をお持ちの方がいらっしゃれば、ぜひ思い出してください。 それは寿命ではありません。生まれ変わるための準備期間なのです。
いずみ靴店は、いつでもその再生のお手伝いをさせていただきます。
いずみ靴店 岡山県倉敷市
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M様、そして読者の皆様へ
「自分の576も同じ状態だ!」と思われた方、あるいは「こんな直し方ができるのか」と興味を持たれた方。 ぜひ、ご自身の愛用されているスニーカーのかかとをチェックしてみてください。 もし樹脂パーツに亀裂が入っていたとしても、諦める必要はありません。
今回の修理に関するご質問や、お見積りのご依頼は、いつでもお気軽にご連絡ください。 私たちは、あなたの「歩く喜び」を守るためにここにいます。
