【修理日誌】静岡県 M様 ニューバランス576 ヒールカップ交換&ソール再接着
2025/11/27
はじめに:遠方からの信頼に応えるということ
私たち「いずみ靴店」は、岡山県倉敷市に工房を構えておりますが、今回のご依頼主であるM様は、遠く離れた静岡県にお住まいです。
インターネットやSNSが普及した現代において、距離の壁は以前よりも低くなりました。しかし、大切な愛用品、それも自分の体重を支え、日々の歩みを共にする「靴」を、顔の見えない遠くの工房へ送るという行為には、やはり大きな「勇気」と「信頼」が必要であると私たちは考えています。
「地元の修理店では断られてしまった」 「どうしてもこの靴をまた履きたい」
そうした切実な想いと共に、海を越え、山を越えて、宅配便で届けられた一足の箱を開けるとき、私たち職人は背筋が伸びる思いがします。M様からお預かりしたニューバランス576。その箱を開けた瞬間、この靴がM様といかに長い時間を共にし、大切に履かれてきたかが伝わってきました。
今回は、この名作スニーカーの再生プロセスを、余すことなくお伝えします。
第1章:名作「ニューバランス576」と、避けられない宿命
不朽の名作 576
修理の詳細に入る前に、今回の「患者」であるニューバランス576について少し触れておきましょう。 1988年に登場した「576」は、ニューバランスを代表するオフロードランニングモデルです。舗装されていない道でも深く地面を掴むアウトソールのパターン、そして安定した歩行をもたらす堅牢な作り。デビューから30年以上経った今でも、多くのファンを魅了してやまない、まさに「レジェンド」と呼ぶにふさわしい一足です。
特に、その丸みを帯びたトゥ(つま先)のシルエットや、上質なレザーやスエードを使用したアッパーの質感は、スポーツシューズの枠を超え、ファッションアイテムとしても不動の地位を築いています。M様がお持ちのこのペアも、履き込まれることで革が足に馴染み、新品には出せない味わい深いオーラを放っていました。
スニーカーの天敵「加水分解」
しかし、どんな名作にも弱点はあります。それが、スニーカーファンを長年悩ませ続けている**「加水分解(かすいぶんかい)」**という現象です。
今回、M様からご相談いただいた最大のトラブルもこれでした。 「かかと部分がグズグズになってしまった」 「歩くたびに違和感がある」
拝見すると、靴のかかとを支えるための芯材である「ヒールカップ(ヒールカウンター)」が、完全に崩壊していました。
ヒールカップは、歩行時にかかとを固定し、足首のブレを防ぐための非常に重要なパーツです。通常、スポーツシューズのこの部分には、軽量化と成形のしやすさから「樹脂(プラスチック)」系の素材が使われます。しかし、この樹脂素材(特にウレタン系など)は、空気中の水分と反応し、経年とともに化学分解を起こしてしまうのです。
これが「加水分解」です。 日本の高温多湿な気候は、この化学反応を加速させます。大切に箱に入れて保管していたとしても、いや、むしろ風通しの悪い場所にしまっておくほうが、湿気がこもり、劣化が進むことさえあります。
M様の576も、外見のアッパーレザーは非常に綺麗でしたが、内部のヒールカップは樹脂としての粘りや弾力を失い、手で触れるだけでボロボロと崩れ落ちる、いわゆる「バキバキ」の状態になっていました。これでは、靴として機能しません。かかとが安定しない靴は、疲れやすいだけでなく、転倒や怪我のリスクすらあります。
第2章:再生への道筋~「交換」ではなく「創造」~
純正パーツは存在しない
「壊れたなら、新しい部品に替えればいい」 家電製品や自動車ならそうかもしれませんが、スニーカーの世界ではそうはいきません。ニューバランス社を含め、多くのメーカーは修理用の「ヒールカップ単体」のパーツ供給を行っていないのです。
また、メーカー修理に出そうとしても、製造から年数が経過したモデルは「修理不可」として断られるケースがほとんどです。これはメーカーが冷たいわけではなく、古い靴を分解することのリスクや、同じ素材が手配できないという物理的な制約によるものです。
では、諦めるしかないのでしょうか? ここで、私たち「街の修繕屋」の出番です。
樹脂から「本革」へのアップグレード
純正の樹脂パーツが手に入らないのであれば、**「作ればいい」**のです。 しかも、ただ元通りにするのではなく、より耐久性が高く、足馴染みの良い素材で。
今回私たちが提案し、採用したのは**「本革」によるヒールカップの作成**です。
樹脂は再び加水分解するリスクがありますが、革は違います。適切に手入れをすれば、数十年単位で持ちこたえる耐久性があります。そして何より、革には「可塑性(かそせい)」があります。履けば履くほど、持ち主のかかとの形に寄り添うように馴染んでいくのです。
本来、高級な革靴(ドレスシューズ)のヒールカウンターには革が使われています。今回は、ハイテクスニーカーであるニューバランス576に、あえてクラシックな革靴の製法を取り入れるという、ハイブリッドな修理を行うことにしました。
第3章:職人の技術~八方ミシンが唸る~
実際の作業工程をご説明します。これは単なる「交換」ではなく、外科手術に近い繊細な作業です。
1. 解体(オペの開始)
まず、靴のかかと部分を慎重に解体します。履き口のステッチをほどき、ライニング(内側の布地)をめくります。すると、中で粉々になった白い樹脂の残骸が現れました。これらを掃除機やブラシを使って丁寧に取り除きます。古い接着剤のカスひとつ残さないよう、徹底的にクリーニングします。これが新しい芯材を綺麗に収めるための下地作りです。
2. 芯材の切り出しと成形
次に、靴のサイズやかかとのカーブに合わせて、厚みのあるヌメ革(本革)を切り出します。 ただ切って入れるだけではありません。「革漉き(かわすき)」という工程が重要になります。革の端の部分を薄く削ぐことで、靴に組み込んだ際に段差ができず、足当たりが滑らかになるように調整します。
そして、この平らな革を、木型(ラスト)や手作業でのくせ付けによって、湾曲したヒールカップの形状へと成形していきます。このカーブがM様のかかとを優しく、かつ力強くホールドする鍵となります。
3. 縫製~八方ミシンの出番~
さあ、ここからが今回のハイライトです。 新しく作った革のヒールカップを所定の位置に収め、めくっていたライニングを元に戻し、縫い合わせる作業です。
ここで登場するのが**「八方ミシン(はっぽうみしん)」**です。
一般的な家庭用ミシンや、洋服用の工業用ミシンは、布を一定の方向(手前から奥)に送って縫います。しかし、靴の修理、特に今回のような「立体的なかかと部分」を縫う場合、普通のミシンでは物理的に縫えません。靴の筒の中にミシンのアームを入れ、複雑な曲線を縫う必要があるからです。
八方ミシンは、その名の通り「八方(あらゆる方向)」に縫い進めることができる特殊なミシンです。 「押さえ」と呼ばれる足の部分が360度回転し、筒状の狭いスペースや、入り組んだ箇所でも自在に縫うことができます。靴修理店や鞄修理店にとっては、まさに伝家の宝刀。
しかし、このミシンは扱うのが非常に難しいことでも知られています。送り歯がないため、職人が手先の感覚だけで縫い目のピッチ(間隔)を調整しながら、一針一針進めていかなければなりません。
「ダダダダッ」と高速で縫うのではなく、「ザクッ、ザクッ」と確かめるように。 元の針穴(ステッチ跡)を可能な限りトレースし、見た目の違和感が出ないように。 M様の576の分厚いスエードと、新しく入れた硬い革芯、そしてライニングを貫通させ、しっかりと固定しました。
これにより、外見はオリジナルの雰囲気を保ちつつ、内部は最強の「本革芯」で武装された576へと生まれ変わりました。
第4章:足元を支えるもう一つの要~ソール再接着~
ヒールカップの修理と並行して、もう一つ重要な処置を行いました。 **「ミッドソールとアウトソールの再接着」**です。
ニューバランス576のようなスニーカーは、クッション性のあるスポンジ状の「ミッドソール」と、地面と接するゴム製の「アウトソール」が貼り合わされてできています。これもまた、経年劣化や接着剤の寿命により、剥がれてくることがよくあります。
M様の靴も、隙間が生じ、剥がれかけている箇所が見受けられました。このまま放置すれば、歩行中にソールが完全に脱落してしまう危険性があります。
接着の科学
靴の接着は、文房具の糊のように「塗って貼る」だけでは強度が出ません。私たちは以下の手順で、強固な結合を取り戻しました。
古い接着剤の除去: 酸化して効力を失った古いボンドを、溶剤やフィニッシャー(研磨機)を使って完全に削り落とします。
プライマー処理: 素材に応じた「プライマー(下地剤)」を塗布します。ゴムにはゴム用の、スポンジにはスポンジ用の下処理を行い、接着剤の食いつきを良くします。この工程をサボると、すぐにまた剥がれてしまいます。
接着剤の塗布と乾燥: イタリア製やドイツ製など、プロ用の強力な接着剤を均一に塗布し、一度完全に乾燥させます。
熱活性(ヒートアクティベーション): 乾燥させた接着面に熱風を当てて温めます。これにより接着剤が化学的に活性化し、最大の粘着力を発揮する状態になります。
圧着: 温かいうちに貼り合わせ、専用のプレス機で強い圧力をかけます。
こうして、M様の576は、ソール周りに関しても新品同様、あるいはそれ以上の結合強度を取り戻しました。
第5章:修理を終えて~モノを大切にする心~
すべての工程を終え、仕上げのブラッシングを行ったニューバランス576。 作業台の上に置かれたその姿は、修理前にあった「くたびれた感じ」が消え、凛とした佇まいを取り戻していました。
かかとを指で押してみます。 以前のような「グニャッ」とした頼りない感触はありません。本革特有の「グッ」と押し返してくるような、硬く粘りのある反発力が指先に伝わります。これなら、M様の体重をしっかりと支え、長時間の歩行でもかかとがブレることなく、快適に歩いていただけるはずです。
なぜ、そこまでして直すのか?
新品のスニーカーを買うほうが、もしかしたら安いかもしれません。手間もかかりません。 それでも、M様が修理を選ばれた理由。それはきっと、この靴と共に過ごした「時間」と「記憶」があるからではないでしょうか。
旅先で歩いた景色、大切に手入れをした時間、自分の足の形に馴染んだ感覚。 そうした「目に見えない価値」は、新品の靴には決して備わっていません。
加水分解はスニーカーの宿命ですが、そこで終わりではありません。 私たち職人が手を加えることで、寿命を延ばし、再び持ち主の元へ帰すことができる。 樹脂から本革へ素材を変えることで、工業製品であったスニーカーに、クラフトマンシップという新たな魂を吹き込むことができる。
今回の修理を通じて、私たちは改めて「直して使う」ことの豊かさを感じました。
おわりに
静岡県のM様。 この度は、数ある修理店の中から、倉敷の「いずみ靴店」を見つけ出し、大切な靴を託してくださり、本当にありがとうございました。
生まれ変わったニューバランス576は、もう加水分解に怯える必要はありません。 本革のヒールカップは、M様が歩けば歩くほど、さらに足に馴染んでいくことでしょう。 八方ミシンで縫い上げたステッチの一つ一つに、私たちの感謝と技術を込めさせていただきました。
お手元に届きましたら、ぜひ足を入れてみてください。 そして、その感触を確かめながら、また色々な場所へ連れて行ってあげてください。
このブログをご覧の皆様も、もし下駄箱の中に「履きたいけれど壊れてしまった」思い出の靴が眠っていましたら、ぜひ一度ご相談ください。 距離は関係ありません。その靴に対する「想い」があれば、私たちは全力でその再生のお手伝いをさせていただきます。
一足の靴が、再び誰かの人生のパートナーとして歩み出す。 その瞬間に立ち会えることが、私たち靴職人にとって何よりの喜びです。
これからも、いずみ靴店をよろしくお願いいたします。
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